今朝電車の中で読む本を探して、たまたま「山岡鉄舟の武士道」(勝部 真長編 角川ソフィア文庫)を手に取って読んでいてふと「品格」について考えたのでちょっと書きたい。
山岡鉄舟は、一般的に次のような人といわれている。(以下上の本より)
慶応4年、駿府の官軍本営に乗り込んで、徳川慶喜の恭順の意を伝え、江戸無血開城への道を開いた至誠の人山岡鉄舟、その命がけの忠義の姿を西郷隆盛は「稀有の勇士」と讃えたという。本の中では、明治時代の日本や世界を次のように評している。
近頃は、紳士という流行語のつくものどもを見るに、滔々そてい天下、私利私欲をたくましくし、邪道天地に満々としている。あるいは、学生・子供が父母、師長をあなどって上下ともに人倫のなんたるかを顧みないものどもが充満しているように見受けられる。上にあっては地位や報酬をむさぼり、汚職・収賄を平気でやり、下にあっては人目をだまして、私利をほしいままにするものが多い状況である。
また次のように言っている。今日世界人心を泥まみれにした気圧原因は、一つには科学進歩の余波と思われる。
さて、そこでふと思い出したのが「品格」ブームの事です。国家の品格や女性の品格なども本がベストセラーになっていますが、そこで語られる現状は上と変わりません。つまり、明治の日本には品格があったという話です。しかし、その当時であっても山岡鉄舟から見ると堕落のきわみであったということになります。しかし、山岡鉄舟の言うとおり江戸時代は品格がある人だらけだったかというと、そうとも思えません。特に幕臣の旗本の多くが、まったく実践の役に立たなかったという事実だけを取り上げても、そうともいえないと思います。
さて、ここで「品格」という言葉の本義について考えてみたいと思います。
まず品ということばを大辞林で引くと次の様に書かれています。
(1)形があって、人の生活に何らかの役割を果たし、持ち運びのできる程度のもの。また、売買の対象とするもの。「記念の―を贈る」「よい―をそろえた店」「これはお勧めできる―です」
(2)質のよしあしなどで区別した、物の等級。内容などの違いによる、物の区別。種類。「あれとは―が違う」「―が落ちる」「手を変え―を変え」
(3)上下の差別。序列。差異。「弓といへば―なきものを/神楽歌」
(4)階段。段。[和名抄]
(5)人の階級。身分。家柄。「口惜しき―に思ひくたし給ふとも/宇津保(俊蔭)」
(6)(「科」とも書く)人や物に備わっている好ましい様子。
(ア)(身分が高いことを示すような)優雅なおかしがたい感じ。また、物の風情・情趣。ひん。「陪従の―おくれたる、柳に挿頭の山吹わりなく見ゆれど/枕草子 220」
(イ)(人の心を引きつけようとする)気取ったしぐさ。また、なまめかしいしぐさ。「此の娘生まれ立ちより―をやりて/浮世草子・禁短気」
(7)事情。次第。事柄。「よい場を持てば―により物干にさへ貸すならひ/浄瑠璃・二つ腹帯」
次に格と調べると次のとおりである。
(1)そのものの値打ちによってできた段階・位・身分・等級など。「―が違う」「―が上がる」
(2)きまり。法則。規則。方式。「凡(およそ)世間出世の―をこえて―にあたるにあたらずと云事なし/沙石 10」
(3)やりかた。手段。流儀。「江戸の―にて盃をさしたるおやまを/滑稽本・膝栗毛 5」
(4)〔case〕文法で、名詞・代名詞などが、文中で他の語に対してもつ関係。日本語では、「が・の・に・を」などの格助詞が格の関係を示す。また印欧語では、語形変化や前置詞によってそのような関係を示す。例えばラテン語には、主格・呼格・属格・与格・対格・奪格の六つの格がある。
(5)〔論〕〔figure〕三段論法で、大小両前提に含まれる中概念の位置によって分類される四種の形式。
(6)律令制下で、律令の規定を改めるために出された臨時の法令。きゃく。
結局、品格は一定の段階や上下関係と関係があると言葉であることが分かります。
それでは、品格があるというのはなんらかの価値体系の中で、上にあるということではないでしょうか。
例えば品格のある国家とはいかなる国家であろうか。
それは、おそらく国際的であっても国内的であっても、一定の価値体系のなかでより上位の位置づけを占めるとうことだと思います。上下という概念は他社との比較関係であり、その他社との関係で決まるすると、国際的に品格ある国家と認められるためには現在一般国際的な価値体系に即して、上位にある価値に沿った行動をすることになります。また、国内的に別に価値体系を持って自己満足的に品格を論じるときは、国民が国としてのあり方に、他国と比較して品格があると思えば、それはそれで品格ある国家ということかもしれませんね。
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2008年03月27日
2008年03月26日
『国家の品格』
藤原正彦氏の『国家の品格』が一大ベストセラーになり、昨年末の新語・流行語大賞でも、トリノオリンピックで華麗な舞で観客を魅了、金メダルを獲得した荒川静香選手の「イナバウアー」と並んで、「品格」が、トップテン大賞に選出されました(現在は順位をつけることが難しいため、十語を選出し、その中から大賞を選ぶ方式に変更になっている)。そのため、品格という言葉がブームとなり、街中にあふれています。その恩恵にあずかろうというのか、「品格」がタイトルに入った書籍が次々と出版されています。
たまたま見た、電車の中吊り広告で女性週刊誌にも「品格」という文字が躍っていたのには失笑したが(品格があるとは思えない記事で発行部数を稼いでいる、といったら失礼でしょうか、週刊誌が品格を問うとは。まあ、単にブームに乗っただけでしょうが)。
この品格ブームについてつい考えさせられました。
「品格」を取り上げるものに一様に感じるのは“昔は良かった”的な回顧思想です。
昔の「日本人」には「品格」というものがあったのに、現代人にはそれがありません。なんと嘆かわしいことか・・・とでも言いたいようです。(まあ、大多数が単にブームに乗って「品格」とつければ売れる、という短絡的な考えに基づいているものばかりでしょうが)
こういった類のものは“昔”と“今”を比較し、「日本人の中身」が変わってしまったと主張するのみです。しかし、変わってしまったものは「日本人の中身」だけしょうでか。時代は常に変化します。近年は特にそのスピードが凄まじいのです。時代と合致しなくなったものは消え行き、新たなものが誕生します。自然淘汰、ということです。
ごく最近に出版された、『女性の品格』を読んでみました。
この本の中では「育児休業」を当然の権利と主張する女性を「品格」がない、と断じ、職場での女性は、男性社会である会社社会では、あくまでも控えめでつつましく、男性の前に出ることなどせずにやっていくことが、うまくいくと説いています。これこそが、「品格」ブームの落とし穴なのです。
たしかに、この著者の時代はそれで上手くいったのかもしれませんが。今は時代が違います。「男女雇用機会均等法」が制定され、それがきちんと機能しているかは、女性の立場からは疑問ですが(新卒学生の就職超氷河期といわれた頃は、女子学生は企業に資料請求しても資料が送付されてくることが少なかった。共学の女子学生は男子学生の名前を借りて資料請求していたほどでした)、一方では、労働法も改正され、女性の夜間(午後10時以降)の労働も解禁されています。きちんと読み込んでいませんので、批判するのもいかがかと思いますが、こういった変化にも目を向けなければならないでしょう。 ちなみに、藤原正彦氏の『国家の品格』は気になるものの、まだ読んでいません。ざっと小見出しに目を通しただけで、この人が主張したいことが見えてきて、ウンザリした、というところです。
本の紹介等では、「国際化という名のアメリカ化で、日本人は古来からの美徳、『情緒』を失った。合理性ではなく、忘れていた『情緒』を思い出し、『日本人』としての『誇り』を取り戻せ」といったところdふぇしょうか。
戦後日本は常にアメリカの後を追って歩んできました。それは、「戦争でアメリカに『負けた』から」でもあります。このような流れに対して反論を唱える人々が近年増えてきています。日本古来の美徳を思い出せ、そこまではまあ、いいでしょう。
しかし、小見出しを見ていると、単純に他国(主に「先進的」といわれるアメリカだが)を貶め、日本、日本人は優れている、ということを繰り返しているように思えてなりません。これは、第二次世界大戦の頃、ナチス・ドイツが、また日本が主張していたことと、どこが違うのでしょうか。
この本もそうですが、最近「武士道」を主張する言論を多く見かけます。ここでいう「武士道」とは何をさしているのでしょうか。論じている側もハッキリと認識していないようんj思います。
日本には「武士道」という言葉が重用された時代が二つありました。
一つは、当然「武士」という階級身分があった時代で、そしてもう一つは、「武士」という身分が消滅した時代にも、何故か「武士道」というものが唱え続けられました。それも、「武士」という階級身分を消し去った当の明治国家が主張していました。
鎖国政策で世界に目を向けることのなかった日本は、黒船来航によってはじめて、世界と日本の「差」を思い知らされました。そこで、慌てて、旧来の幕府制度を崩し、富国強兵策に乗り出し、天皇主権国家形成の段階で、君主に対しての忠誠を説く古来の「武士道」を利用したのでしょう。それが、戦争への途を進むにつれ、どんどん為政者にとって都合の良いものに歪曲されていった。そのように思えてなりません。
他者を貶めることで、自己の優位性を確認しようとする。これは、人間に良く見られることです、このような行為が「品格」あるものだとは、決して思えません。品格を問うこの本の内容が、そういったものに見えるのは、読み込みの浅さが原因でしょうか。
この本で同意できるのは、「英語よりも日本語」という部分くらいでしょうか。自国の言葉すらろくに話せないうちからの英語教育は不要と思います。ただし、英語など、他国語を否定するつもりは毛頭ありません。他国語が話せることで、他国の人々とのコミュニケーションが図れるからです。しかし、この本はあくまでも排他的で、そういったことにはあまり言及してはいないようです。
今の時代、日本一国では到底成り立ちません。中国の食品問題が今話題となっていますが、食料、エネルギー等のすべてを他国に頼っています。この本のように、自己の優位性を確立するために、他を排除、あるいは貶める、という行為は国益にかなっているのでしょうか。
たまたま見た、電車の中吊り広告で女性週刊誌にも「品格」という文字が躍っていたのには失笑したが(品格があるとは思えない記事で発行部数を稼いでいる、といったら失礼でしょうか、週刊誌が品格を問うとは。まあ、単にブームに乗っただけでしょうが)。
この品格ブームについてつい考えさせられました。
「品格」を取り上げるものに一様に感じるのは“昔は良かった”的な回顧思想です。
昔の「日本人」には「品格」というものがあったのに、現代人にはそれがありません。なんと嘆かわしいことか・・・とでも言いたいようです。(まあ、大多数が単にブームに乗って「品格」とつければ売れる、という短絡的な考えに基づいているものばかりでしょうが)
こういった類のものは“昔”と“今”を比較し、「日本人の中身」が変わってしまったと主張するのみです。しかし、変わってしまったものは「日本人の中身」だけしょうでか。時代は常に変化します。近年は特にそのスピードが凄まじいのです。時代と合致しなくなったものは消え行き、新たなものが誕生します。自然淘汰、ということです。
ごく最近に出版された、『女性の品格』を読んでみました。
この本の中では「育児休業」を当然の権利と主張する女性を「品格」がない、と断じ、職場での女性は、男性社会である会社社会では、あくまでも控えめでつつましく、男性の前に出ることなどせずにやっていくことが、うまくいくと説いています。これこそが、「品格」ブームの落とし穴なのです。
たしかに、この著者の時代はそれで上手くいったのかもしれませんが。今は時代が違います。「男女雇用機会均等法」が制定され、それがきちんと機能しているかは、女性の立場からは疑問ですが(新卒学生の就職超氷河期といわれた頃は、女子学生は企業に資料請求しても資料が送付されてくることが少なかった。共学の女子学生は男子学生の名前を借りて資料請求していたほどでした)、一方では、労働法も改正され、女性の夜間(午後10時以降)の労働も解禁されています。きちんと読み込んでいませんので、批判するのもいかがかと思いますが、こういった変化にも目を向けなければならないでしょう。 ちなみに、藤原正彦氏の『国家の品格』は気になるものの、まだ読んでいません。ざっと小見出しに目を通しただけで、この人が主張したいことが見えてきて、ウンザリした、というところです。
本の紹介等では、「国際化という名のアメリカ化で、日本人は古来からの美徳、『情緒』を失った。合理性ではなく、忘れていた『情緒』を思い出し、『日本人』としての『誇り』を取り戻せ」といったところdふぇしょうか。
戦後日本は常にアメリカの後を追って歩んできました。それは、「戦争でアメリカに『負けた』から」でもあります。このような流れに対して反論を唱える人々が近年増えてきています。日本古来の美徳を思い出せ、そこまではまあ、いいでしょう。
しかし、小見出しを見ていると、単純に他国(主に「先進的」といわれるアメリカだが)を貶め、日本、日本人は優れている、ということを繰り返しているように思えてなりません。これは、第二次世界大戦の頃、ナチス・ドイツが、また日本が主張していたことと、どこが違うのでしょうか。
この本もそうですが、最近「武士道」を主張する言論を多く見かけます。ここでいう「武士道」とは何をさしているのでしょうか。論じている側もハッキリと認識していないようんj思います。
日本には「武士道」という言葉が重用された時代が二つありました。
一つは、当然「武士」という階級身分があった時代で、そしてもう一つは、「武士」という身分が消滅した時代にも、何故か「武士道」というものが唱え続けられました。それも、「武士」という階級身分を消し去った当の明治国家が主張していました。
鎖国政策で世界に目を向けることのなかった日本は、黒船来航によってはじめて、世界と日本の「差」を思い知らされました。そこで、慌てて、旧来の幕府制度を崩し、富国強兵策に乗り出し、天皇主権国家形成の段階で、君主に対しての忠誠を説く古来の「武士道」を利用したのでしょう。それが、戦争への途を進むにつれ、どんどん為政者にとって都合の良いものに歪曲されていった。そのように思えてなりません。
他者を貶めることで、自己の優位性を確認しようとする。これは、人間に良く見られることです、このような行為が「品格」あるものだとは、決して思えません。品格を問うこの本の内容が、そういったものに見えるのは、読み込みの浅さが原因でしょうか。
この本で同意できるのは、「英語よりも日本語」という部分くらいでしょうか。自国の言葉すらろくに話せないうちからの英語教育は不要と思います。ただし、英語など、他国語を否定するつもりは毛頭ありません。他国語が話せることで、他国の人々とのコミュニケーションが図れるからです。しかし、この本はあくまでも排他的で、そういったことにはあまり言及してはいないようです。
今の時代、日本一国では到底成り立ちません。中国の食品問題が今話題となっていますが、食料、エネルギー等のすべてを他国に頼っています。この本のように、自己の優位性を確立するために、他を排除、あるいは貶める、という行為は国益にかなっているのでしょうか。
2008年03月25日
とかく昨今は「品格」ばやりです。
とかく昨今は「品格」ばやりです。
昨年は藤原正彦著「国家の品格」が200万部を超える大ベストセラーを記録し、流行語大賞を受賞したせいもあって巷(ちまた)の品格論議に火を付けました。
テレビドラマでは今年、現代の格差社会の断面を描いた「ハケンの品格」が大ヒットし、話題を呼びました。
また最近では坂東眞理子著の「女性の品格」が宮崎の書店でも爆発的に売れ、品格ブームは収まりそうにもありません。
「社会現象」にまでなった現代の品格論議は、その中身が希薄になったことの裏返しともいえますが、そんな状況をどう考えたらいいのか。そして品格喪失時代を生きる知恵とはどんな事なのでしょうか。
■「嘘をつかない」政治家■
品格が人ごとでなくなっていると感じたのは「この人も気にしてるのか」という文章を見つけたからです。
東国原英夫知事が、インターネットのブログ(「そのまんま日記」8月14日付)に書いています。
「僕の政治スタイルを『品格が無い』とか『威厳に欠ける』と批判する人がいる。(中略)敢えて言わせてもらえば、政治家としての『品格』というのは『国民や県民に嘘うそをつかないこと』であると僕は思っている」
もとより東国原知事に従来型の知事像を期待する県民は多くは居ないでしょう。そういうリーダーの転換こそ、県民が知事を選んだ理由だったのですから。
文中で官僚出身の知事像や偉そうな政治家と自らが違うことを強調し、政治家の品格を「嘘をつかないこと」としたのは一つの見識です。その真率さを多くの県民が支持しています。
ただ「嘘をつかない」政治家は好感を持たれるとしても、それは「政治信条」や「政治姿勢」という類(たぐい)の、自らの倫理観を律した意味合いが強いですが、現代の品格論には、もっと社会的に要請される理由があるように思います。
■理想が消えた後の「型」■
品格(品位)が指し示す内容は幅広いのです。堅固な志操や見識の高さ、潔い態度と美的な姿・振る舞いなど、優れた人間性のトータルな評価の事を言います。
また大相撲の朝青龍問題では「横綱の品格」が焦点になったり、相次ぐ不祥事が原因で「企業の品格」が追及されたように、社会的責任が問われるポジション、役割に課される例も多いのです。
求められる理由は、品格という言葉に象徴される生き方の内的な規範、そのモデルが失われたことが大きく、多くでもの日本人が豊かさと「私」優先の価値観を実現させたときに、目標とする共通の理想像が消えました。そこから過去の生き方の美的な「型」「様式」が呼び込まれるのは必然といえます。
でも品格は元来、他者の評価を前提にした価値判断でした。「自分は品格がある」という言明は本来あり得ません。
私たちの社会は、そういう自己を映す「鏡」を持っているでしょうか。むしろ直視する他者のいない、居心地のいい「私」に充足し、自己だけの理想像を織り上げているのではないでしょうか。
現代の品格論の構図は、そういう脆弱(ぜいじゃく)な自己像を覆い隠し、美的な「型」で補強する姿に思えてなりません。
それぞれの品格イメージを育てることは大切でしょうが、その中身を外から丹念に鍛え合う場も持ちたい。生き方のモデルは、その時代にふさわしい革袋の中からしか生まれません。そこで考えたいのは「宮崎の品格」です。他県と磨き合い、名実共に誇れる私たちの地域の品格とは…。
昨年は藤原正彦著「国家の品格」が200万部を超える大ベストセラーを記録し、流行語大賞を受賞したせいもあって巷(ちまた)の品格論議に火を付けました。
テレビドラマでは今年、現代の格差社会の断面を描いた「ハケンの品格」が大ヒットし、話題を呼びました。
また最近では坂東眞理子著の「女性の品格」が宮崎の書店でも爆発的に売れ、品格ブームは収まりそうにもありません。
「社会現象」にまでなった現代の品格論議は、その中身が希薄になったことの裏返しともいえますが、そんな状況をどう考えたらいいのか。そして品格喪失時代を生きる知恵とはどんな事なのでしょうか。
■「嘘をつかない」政治家■
品格が人ごとでなくなっていると感じたのは「この人も気にしてるのか」という文章を見つけたからです。
東国原英夫知事が、インターネットのブログ(「そのまんま日記」8月14日付)に書いています。
「僕の政治スタイルを『品格が無い』とか『威厳に欠ける』と批判する人がいる。(中略)敢えて言わせてもらえば、政治家としての『品格』というのは『国民や県民に嘘うそをつかないこと』であると僕は思っている」
もとより東国原知事に従来型の知事像を期待する県民は多くは居ないでしょう。そういうリーダーの転換こそ、県民が知事を選んだ理由だったのですから。
文中で官僚出身の知事像や偉そうな政治家と自らが違うことを強調し、政治家の品格を「嘘をつかないこと」としたのは一つの見識です。その真率さを多くの県民が支持しています。
ただ「嘘をつかない」政治家は好感を持たれるとしても、それは「政治信条」や「政治姿勢」という類(たぐい)の、自らの倫理観を律した意味合いが強いですが、現代の品格論には、もっと社会的に要請される理由があるように思います。
■理想が消えた後の「型」■
品格(品位)が指し示す内容は幅広いのです。堅固な志操や見識の高さ、潔い態度と美的な姿・振る舞いなど、優れた人間性のトータルな評価の事を言います。
また大相撲の朝青龍問題では「横綱の品格」が焦点になったり、相次ぐ不祥事が原因で「企業の品格」が追及されたように、社会的責任が問われるポジション、役割に課される例も多いのです。
求められる理由は、品格という言葉に象徴される生き方の内的な規範、そのモデルが失われたことが大きく、多くでもの日本人が豊かさと「私」優先の価値観を実現させたときに、目標とする共通の理想像が消えました。そこから過去の生き方の美的な「型」「様式」が呼び込まれるのは必然といえます。
でも品格は元来、他者の評価を前提にした価値判断でした。「自分は品格がある」という言明は本来あり得ません。
私たちの社会は、そういう自己を映す「鏡」を持っているでしょうか。むしろ直視する他者のいない、居心地のいい「私」に充足し、自己だけの理想像を織り上げているのではないでしょうか。
現代の品格論の構図は、そういう脆弱(ぜいじゃく)な自己像を覆い隠し、美的な「型」で補強する姿に思えてなりません。
それぞれの品格イメージを育てることは大切でしょうが、その中身を外から丹念に鍛え合う場も持ちたい。生き方のモデルは、その時代にふさわしい革袋の中からしか生まれません。そこで考えたいのは「宮崎の品格」です。他県と磨き合い、名実共に誇れる私たちの地域の品格とは…。
2008年03月24日
下品とは何かと考えてみましょう。
それでは反対に下品とは何かと考えてみましょう。
大辞泉によると下品とは「品格・品性が劣ること。卑しいこと。また、そのさま。」と書かれています。「―な人」「―な言葉遣い」という風に用い、上品の対義語になります。
次ぎに、英語圏における下品の定義を見てみると、日本語の下品に当たる英語はvulgar; coarse, indecent。
vulgarとは、
a : lacking in cultivation, perception, or taste 教養、理解力あるいは審美眼に欠けること。
b : morally crude, undeveloped, or unregenerate 道義的に粗野(天然のまま)か、あるいは未発達か、悔い改めないこと。
c : ostentatious or excessive in expenditure or display 消費または振る舞いにおいて見栄を張ったり(けばけばしかったり)過度なこと。
coarseとは、 crude or unrefined in taste, manners, or language嗜好、礼儀作法あるいは言語において天然のままかあるいはあか抜けしないこと。
indecentとは、 not decent; especially : grossly unseemly or offensive to manners or morals礼儀正しくないこと;特に、礼儀または道徳に大いに不適当かあるいは攻撃的なこと。
大辞泉によると下品とは「品格・品性が劣ること。卑しいこと。また、そのさま。」と書かれています。「―な人」「―な言葉遣い」という風に用い、上品の対義語になります。
次ぎに、英語圏における下品の定義を見てみると、日本語の下品に当たる英語はvulgar; coarse, indecent。
vulgarとは、
a : lacking in cultivation, perception, or taste 教養、理解力あるいは審美眼に欠けること。
b : morally crude, undeveloped, or unregenerate 道義的に粗野(天然のまま)か、あるいは未発達か、悔い改めないこと。
c : ostentatious or excessive in expenditure or display 消費または振る舞いにおいて見栄を張ったり(けばけばしかったり)過度なこと。
coarseとは、 crude or unrefined in taste, manners, or language嗜好、礼儀作法あるいは言語において天然のままかあるいはあか抜けしないこと。
indecentとは、 not decent; especially : grossly unseemly or offensive to manners or morals礼儀正しくないこと;特に、礼儀または道徳に大いに不適当かあるいは攻撃的なこと。
2008年03月23日
著書紹介
女性の品格 (PHP新書) (新書)
坂東 眞理子 (著)
■商品の内容
[要旨]
いまや女性の社会進出、活躍が当たり前となった日本社会。学校や職場でも優秀で元気なのは女性ばかり。もはや古い型の「女らしさ」は求められない?いや、女性上位の時代だからこそ、従来の男性とは異なる価値観、よき女性らしさを、職場や家庭に持ち込んでほしい。本書はビジネスから装い、話し方、恋愛にいたるまで、女性としての振舞い方を具体的にアドバイス。「礼状が書ける」「約束を守る」「型どおりの挨拶ができる」といったふだんの言動に、女性の生き方と品位はおのずと表われるのである。
[目次]
第1章 マナーと品格;第2章 品格のある言葉と話し方;第3章 品格ある装い;第4章 品格のある暮らし;第5章 品格ある人間関係;第6章 品格のある行動;第7章 品格のある生き方
■著者紹介
坂東 眞理子 (バンドウ マリコ)
1946年富山県生まれ。東京大学卒業。69年総理府入省。内閣広報室参事官、男女共同参画室長、埼玉県副知事等を経て、98年女性初の総領事(オーストラリア・ブリスベン)。2001年内閣府初代男女共同参画局長。04年昭和女子大学教授を経て、昭和女子大学副学長、同大学女性文化研究所長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■おすすめコメント
いまや女性の社会進出、活躍が当たり前となった現代の日本。学校や職場でも、優秀で元気なのは女性ばかりである。女性の価値観、果たすべき役割が大きく変化しているのだ。では、古い型の「女らしさ」はもはや求められないのだろうか? いや、女性上位の時代だからこそ、従来の男性とは異なる価値観、よき女性らしさを、職場や家庭に持ち込んでほしい、と著者は語っている。 「礼を尽くす」「得意料理をもつ」「愛されるより愛する」――日常の立居振舞いに、女性の生き方と品位はおのずと表われる。
いまや女性の社会進出、活躍が当たり前となった日本社会。
学校や職場でも優秀で元気なのは女性ばかり。
もはや古い型の「女らしさ」は求められない?いや、女性上位の時代だからこそ、従来の男性とは異なる価値観、よき女性らしさを、職場や家庭に持ち込んでほしい。
本書はビジネスから装い、話し方、恋愛にいたるまで、女性としての振舞い方を具体的にアドバイス。
「礼状が書ける」「約束を守る」「型どおりの挨拶ができる」といったふだんの言動に、女性の生き方と品位はおのずと表われるのである。
第1章 マナーと品格
第2章 品格のある言葉と話し方
第3章 品格ある装い
第4章 品格のある暮らし
第5章 品格ある人間関係
第6章 品格のある行動
第7章 品格のある生き方
「礼を尽くす」「得意料理をもつ」「愛されるより愛する」――日常の立居振舞いに、女性の生き方と品位はおのずと表われる。
坂東 眞理子 (著)
■商品の内容
[要旨]
いまや女性の社会進出、活躍が当たり前となった日本社会。学校や職場でも優秀で元気なのは女性ばかり。もはや古い型の「女らしさ」は求められない?いや、女性上位の時代だからこそ、従来の男性とは異なる価値観、よき女性らしさを、職場や家庭に持ち込んでほしい。本書はビジネスから装い、話し方、恋愛にいたるまで、女性としての振舞い方を具体的にアドバイス。「礼状が書ける」「約束を守る」「型どおりの挨拶ができる」といったふだんの言動に、女性の生き方と品位はおのずと表われるのである。
[目次]
第1章 マナーと品格;第2章 品格のある言葉と話し方;第3章 品格ある装い;第4章 品格のある暮らし;第5章 品格ある人間関係;第6章 品格のある行動;第7章 品格のある生き方
■著者紹介
坂東 眞理子 (バンドウ マリコ)
1946年富山県生まれ。東京大学卒業。69年総理府入省。内閣広報室参事官、男女共同参画室長、埼玉県副知事等を経て、98年女性初の総領事(オーストラリア・ブリスベン)。2001年内閣府初代男女共同参画局長。04年昭和女子大学教授を経て、昭和女子大学副学長、同大学女性文化研究所長(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■おすすめコメント
いまや女性の社会進出、活躍が当たり前となった現代の日本。学校や職場でも、優秀で元気なのは女性ばかりである。女性の価値観、果たすべき役割が大きく変化しているのだ。では、古い型の「女らしさ」はもはや求められないのだろうか? いや、女性上位の時代だからこそ、従来の男性とは異なる価値観、よき女性らしさを、職場や家庭に持ち込んでほしい、と著者は語っている。 「礼を尽くす」「得意料理をもつ」「愛されるより愛する」――日常の立居振舞いに、女性の生き方と品位はおのずと表われる。
いまや女性の社会進出、活躍が当たり前となった日本社会。
学校や職場でも優秀で元気なのは女性ばかり。
もはや古い型の「女らしさ」は求められない?いや、女性上位の時代だからこそ、従来の男性とは異なる価値観、よき女性らしさを、職場や家庭に持ち込んでほしい。
本書はビジネスから装い、話し方、恋愛にいたるまで、女性としての振舞い方を具体的にアドバイス。
「礼状が書ける」「約束を守る」「型どおりの挨拶ができる」といったふだんの言動に、女性の生き方と品位はおのずと表われるのである。
第1章 マナーと品格
第2章 品格のある言葉と話し方
第3章 品格ある装い
第4章 品格のある暮らし
第5章 品格ある人間関係
第6章 品格のある行動
第7章 品格のある生き方
「礼を尽くす」「得意料理をもつ」「愛されるより愛する」――日常の立居振舞いに、女性の生き方と品位はおのずと表われる。
2008年03月22日
〜品格本はなぜバカ売れするのか〜
正月の日経新聞に「会社の品格」という本の全面広告が掲載されていました。広告には、この本が発売以来、7刷され、ベストセラーになっているというコピーが躍っていましたが、「国家の品格」「女性の品格」に続いて、3匹目のドジョウを狙うというスケベ根性がミエミエで、品のないこと甚だしいと思います。いつから、日本では、こうまで「品格」の大安売りをするようになってしまったのでしょうか。
「国家の品格」にしろ「女性の品格」にしろ、いわゆる品格本のどれにも共通しているのは、パラパラと15分も立ち読みすれば、書いてあることがほぼ理解できてしまうほど、内容が空疎であることでしょう。書かれていることは、ある種のノスタルジーに満ちた伝統的な世界観の表明のみであり、新しいことは何も書かれていません。要するに、買ってまで読む本ではないのだが、「国家の品格」にしろ「女性の品格」にしろ、200万部をこえる大ベストセラーになっています。「国家の品格」については、この本の内容についてとやかく言うよりも、こうした本が200万部売れる世相の方に驚きを感じるというのが私の実感です。
品格本がバカ売れする世相とは?
「品格」とは一体何を意味していて、何故、ここまで世間の人々の関心を引きつける言葉になっているのでしょうか。
品格ということに関連した出来事が、昨年相撲界で起こったことは皆さんもご存知の通りですが、朝青龍の「横綱の品格」問題がマスコミを大きく騒がせました。朝青龍の土俵上の所作や後輩に対する指導面で粗暴な態度が目立ち、横綱としての品格に欠けると横綱審議委員会が問題にしました。さらに、体調不良を理由に巡業を休んで帰郷したモンゴルで、子供たちと草サッカーに興じる姿がメディアにすっぱ抜かれるに及んで、日本のメディアは、朝青龍に対するバッシングの嵐、一色になりました。なかでも批判の急先鋒に立っていたのが、横綱審議委員のひとりでもある内舘牧子という人でした。
内舘氏は、かねてから朝青龍の品格についてあれこれと苦言を呈していましたが、詐病問題が発覚してからは、公然と「朝青龍は責任をとり、引退すべき」と発言してきました。
しかし、内舘氏の語る「品格」の中味を検証してみると、とても文筆を生業としている人間とは思えないような支離滅裂な内容の様に思えます。
横綱の品格を巡る支離滅裂な議論
内舘氏の横綱の品格を巡る迷言には色々ありますが、例えば、懸賞金をもらう際に、左利きの朝青龍が左手で手刀を切って受け取った行為を取り上げて、「右手で手刀を切るのが大相撲の伝統」といちゃもんをつけました。ところが、相撲の取り組みに懸賞金を出すこと自体が、戦後になって定着したことであり、たかだか半世紀しか経ていいません。従って、懸賞金を受け取る際に右手で所作を行うということは、大相撲古来の伝統とは何の関係もない事であり、内舘氏の言っていることは、姑の小言、嫁いびりのようなもので、言いがかりに近いのではないでしょうか。
また、2006年の九州場所、8日目の取り組みで、朝青龍が「けたぐり」で、稀勢の里(東小結)を破りましたが、この技が「横綱らしくない」と批判を浴びた。内館氏も「けたぐりという言葉からして下品。あの品格のなさは何なんだと思う」と激怒したということですが、内舘氏のいうように「けたぐり」自体が、そもそも「下品」というなら、さっさと禁じ手にすべきではないのか。正式な決まり手としてルール化しておきながら、「横綱の品格」という意味不明な言葉に照らして力士を非難するのは、ダブルスタンダードに他ならないでしょう。「けたぐり」という技の品格を云々する以前に、ルール以外の基準を恣意的に持ち出すアンフェア(不公正)な姿勢の方こそ批判されるべきであると思います。
今回の記事は、内舘氏や相撲協会を批判することが目的ではありませんので、これ以上言及しませんが、ここで紹介した朝青龍の品格問題を見ますと、「品格」という言葉が、どのように使われているか明らかでしょう。
すなわち、「品格」とは、もともと定義することが不可能な内容空疎な言葉であり、しばしば恣意的に使われます。そして、恣意的に使われる事を通じて、品格あり(上品)、品格なし(下品)を線引きし、差別する言葉として機能しています。何が上品であり、逆になにが下品なのか、その区分けは判然とせず、ルール化されていませんので、「品格がない」といわれた者にとっては異議申し立てをする手だてがありません。朝青龍のように左手で懸賞金を取ることは品格がないといわれて、右手に直してみても、次には別の恣意的な基準が押しつけられ、“品格”は逃げ水のように永遠に目の前から遠ざかっていきます。朝青龍の詐病問題などについていえば、事の発端となった非は、確かに朝青龍にあったといえますが、横綱の品格の名においてなされたバッシングは度を越しており、明らかに外国人差別だったといえます。もし、内舘氏や横綱審議委員会やメディアの関係者が、朝青龍に対する、品格あるいは人格非難が、外国人差別ではないというなら、「品格」とは何なのか、何を達成すれば「品格」を獲得できるのかについて、どんな文化的な背景をもった人間に対しても、理解できる方法で説明する義務があると思います(そんなことはできないし、する気もないでしょうが・・・)。
品格という言葉は一種の差別用語
有り体にいえば、品格という言葉は、一種の差別用語であり、そもそも品の良い言葉ではないと考えるべきです。そして、こうした言葉が蔓延すること自体が、この国が言い知れぬ閉塞感に覆われていることの現れに他なりません。品格という言葉を支持し、「国家の品格」や「女性の品格」に書かれているノスタルジアに耽っている人々は、そこに書かれている伝統的な世界観が、これからも守られることを強く望みながら、同時に、それが不可能であることに気づき始めています。
振り返れば、日本人は、戦後の高度経済成長時代を、品格のない「エコノミックアニマル」と海外から揶揄されながらも、なりふり構わず働き、その結果、「人並み」と呼べる生活を手にいれることができました。バブル経済が崩壊する90年代までは、国民の大半が、自分は「人並み」(中流)であると表現する、世界史上でも希有な“超安定・平等社会”をつくりあげました。しかし、ふと足下を見れば、堅固に見えた、その安定・平等社会には、黒々とした亀裂が走っています。
Gooリサーチが、一昨年実施した「日本人の品格・道徳観」に関する調査によりますと、日本人が元々持っていて、失われつつある徳目は「謙虚さ」「礼儀正しさ」であり、逆に日本人が取り入れるべきでないものは「個人主義」「競争社会」であると考えられています。この調査結果にも示されているように、「品格」とは、この国から失われつつある「平等主義=アンチ競争主義」の密かな表明なのであり、そこには、自分たちを「人並み」「中流」と表現した人々の倫理、道徳意識が色濃く投影されています。
そして「品格」という言葉に、ノスタルジアがつきまとうとすれば、それは、高度経済成長がもたらした安定・平等社会の終焉に立ち会い、私たちが、その後ろ姿を見送っているからに他なりません。それは、また同時に、安定・平等社会との決別という、苛酷な現実からしばし目をそらすための、最期の「ファンタジー」なのかも知れませんね。
苛酷な現実を覆い隠す言葉としての「品格」
相撲のことでいえば、「横綱の品格」とは、誰もその実体を言い当てたり、示したりできない蜃気楼のようなものです。そもそも大相撲という国技自体の存続が危ぶまれる状況に陥っているのであり、日本人の子弟からは、新弟子もまともに採れないので、東欧やモンゴル等、世界中の貧しい国から、成功に飢えた青年たちを掻き集めなくてはならないのが現実です。そして、そうした青年の中から誕生した、飛び切りの成功者が朝青龍なのです。相撲のグローバル化といえば、聞こえはいいが、学習塾の鞄を背負って、ゲーム機に熱中する小利口で「品のいい」子供ばかりになった日本からは、苛酷な修練に耐えるハングリー精神を持った子供が消え失せてしまった。そして、今や国技たる大相撲を支えているのは、なりふり構わず生き延びることに必死な「品のない」外国人だということを、誰もが承知しています。その現実を覆い隠すために「横綱の品格」なる言葉は生み出されたのです。
転じて、日本の現実に目を向ければ、少子高齢化とグローバル化に伴って押し寄せる外国人、いくら働いても正社員にもなれないワーキングプアの増大、なりふり構わず、必死にならなければ生きていけず、「品格」という言葉とは無縁に生きる人々が、身のまわりに増えています。そうした人々が抱えている苦境と、自分たちが得た「安定・平等社会」とは別物だということを確認したくて、この国の人々は「品格」という言葉にどうしようもなく惹かれるのであり、品格ブームとは、戦後の日本人が築き上げてきた「安定・平等社会」が消え去っていく過程で立ち現れる最期の輝きのようなものでしょう。
ここまで、書いて、29年前に「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は、おれは絶対風雅の道をゆかぬ」と書いた詩人、中桐雅夫の言葉を思い出しました。
老い先が短くなると気も短くなる
このごろはすぐ腹が立つようになってきた
腕時計のバンドもゆるくなってしまった
おれの心がやせた証拠かもしれぬ
酒がやたらにあまくなった
学問にも商売にも品がなくなってきた
昔は資本家が労働者の首をしめたが
今はめいめいが自分の首をしめている
おのれだけが正しいと思っている若者が多い
学生に色目をつかう芸者のような教授が多い
美しいイメジを作っているだけの詩人でも
二流の批評家がせっせとほめてくれる
戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は
おれは絶対風雅の道をゆかぬ
「やせた心」(中桐雅夫)
透徹した詩人の目は、この詩が書かれた29年前に、この国の閉塞した未来を正確に見切っていた。日本人の品格を賛美し、我彼の違いを言い立てることは、この詩人の言葉をかりれば「めいめいが自分の首をしめている」姿に重なります。品格をいいながら、われわれの心は救いようもなく、やせているのではないでしょうか。
「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は、おれは絶対風雅の道をゆかぬ」と書いた詩人の
「国家の品格」にしろ「女性の品格」にしろ、いわゆる品格本のどれにも共通しているのは、パラパラと15分も立ち読みすれば、書いてあることがほぼ理解できてしまうほど、内容が空疎であることでしょう。書かれていることは、ある種のノスタルジーに満ちた伝統的な世界観の表明のみであり、新しいことは何も書かれていません。要するに、買ってまで読む本ではないのだが、「国家の品格」にしろ「女性の品格」にしろ、200万部をこえる大ベストセラーになっています。「国家の品格」については、この本の内容についてとやかく言うよりも、こうした本が200万部売れる世相の方に驚きを感じるというのが私の実感です。
品格本がバカ売れする世相とは?
「品格」とは一体何を意味していて、何故、ここまで世間の人々の関心を引きつける言葉になっているのでしょうか。
品格ということに関連した出来事が、昨年相撲界で起こったことは皆さんもご存知の通りですが、朝青龍の「横綱の品格」問題がマスコミを大きく騒がせました。朝青龍の土俵上の所作や後輩に対する指導面で粗暴な態度が目立ち、横綱としての品格に欠けると横綱審議委員会が問題にしました。さらに、体調不良を理由に巡業を休んで帰郷したモンゴルで、子供たちと草サッカーに興じる姿がメディアにすっぱ抜かれるに及んで、日本のメディアは、朝青龍に対するバッシングの嵐、一色になりました。なかでも批判の急先鋒に立っていたのが、横綱審議委員のひとりでもある内舘牧子という人でした。
内舘氏は、かねてから朝青龍の品格についてあれこれと苦言を呈していましたが、詐病問題が発覚してからは、公然と「朝青龍は責任をとり、引退すべき」と発言してきました。
しかし、内舘氏の語る「品格」の中味を検証してみると、とても文筆を生業としている人間とは思えないような支離滅裂な内容の様に思えます。
横綱の品格を巡る支離滅裂な議論
内舘氏の横綱の品格を巡る迷言には色々ありますが、例えば、懸賞金をもらう際に、左利きの朝青龍が左手で手刀を切って受け取った行為を取り上げて、「右手で手刀を切るのが大相撲の伝統」といちゃもんをつけました。ところが、相撲の取り組みに懸賞金を出すこと自体が、戦後になって定着したことであり、たかだか半世紀しか経ていいません。従って、懸賞金を受け取る際に右手で所作を行うということは、大相撲古来の伝統とは何の関係もない事であり、内舘氏の言っていることは、姑の小言、嫁いびりのようなもので、言いがかりに近いのではないでしょうか。
また、2006年の九州場所、8日目の取り組みで、朝青龍が「けたぐり」で、稀勢の里(東小結)を破りましたが、この技が「横綱らしくない」と批判を浴びた。内館氏も「けたぐりという言葉からして下品。あの品格のなさは何なんだと思う」と激怒したということですが、内舘氏のいうように「けたぐり」自体が、そもそも「下品」というなら、さっさと禁じ手にすべきではないのか。正式な決まり手としてルール化しておきながら、「横綱の品格」という意味不明な言葉に照らして力士を非難するのは、ダブルスタンダードに他ならないでしょう。「けたぐり」という技の品格を云々する以前に、ルール以外の基準を恣意的に持ち出すアンフェア(不公正)な姿勢の方こそ批判されるべきであると思います。
今回の記事は、内舘氏や相撲協会を批判することが目的ではありませんので、これ以上言及しませんが、ここで紹介した朝青龍の品格問題を見ますと、「品格」という言葉が、どのように使われているか明らかでしょう。
すなわち、「品格」とは、もともと定義することが不可能な内容空疎な言葉であり、しばしば恣意的に使われます。そして、恣意的に使われる事を通じて、品格あり(上品)、品格なし(下品)を線引きし、差別する言葉として機能しています。何が上品であり、逆になにが下品なのか、その区分けは判然とせず、ルール化されていませんので、「品格がない」といわれた者にとっては異議申し立てをする手だてがありません。朝青龍のように左手で懸賞金を取ることは品格がないといわれて、右手に直してみても、次には別の恣意的な基準が押しつけられ、“品格”は逃げ水のように永遠に目の前から遠ざかっていきます。朝青龍の詐病問題などについていえば、事の発端となった非は、確かに朝青龍にあったといえますが、横綱の品格の名においてなされたバッシングは度を越しており、明らかに外国人差別だったといえます。もし、内舘氏や横綱審議委員会やメディアの関係者が、朝青龍に対する、品格あるいは人格非難が、外国人差別ではないというなら、「品格」とは何なのか、何を達成すれば「品格」を獲得できるのかについて、どんな文化的な背景をもった人間に対しても、理解できる方法で説明する義務があると思います(そんなことはできないし、する気もないでしょうが・・・)。
品格という言葉は一種の差別用語
有り体にいえば、品格という言葉は、一種の差別用語であり、そもそも品の良い言葉ではないと考えるべきです。そして、こうした言葉が蔓延すること自体が、この国が言い知れぬ閉塞感に覆われていることの現れに他なりません。品格という言葉を支持し、「国家の品格」や「女性の品格」に書かれているノスタルジアに耽っている人々は、そこに書かれている伝統的な世界観が、これからも守られることを強く望みながら、同時に、それが不可能であることに気づき始めています。
振り返れば、日本人は、戦後の高度経済成長時代を、品格のない「エコノミックアニマル」と海外から揶揄されながらも、なりふり構わず働き、その結果、「人並み」と呼べる生活を手にいれることができました。バブル経済が崩壊する90年代までは、国民の大半が、自分は「人並み」(中流)であると表現する、世界史上でも希有な“超安定・平等社会”をつくりあげました。しかし、ふと足下を見れば、堅固に見えた、その安定・平等社会には、黒々とした亀裂が走っています。
Gooリサーチが、一昨年実施した「日本人の品格・道徳観」に関する調査によりますと、日本人が元々持っていて、失われつつある徳目は「謙虚さ」「礼儀正しさ」であり、逆に日本人が取り入れるべきでないものは「個人主義」「競争社会」であると考えられています。この調査結果にも示されているように、「品格」とは、この国から失われつつある「平等主義=アンチ競争主義」の密かな表明なのであり、そこには、自分たちを「人並み」「中流」と表現した人々の倫理、道徳意識が色濃く投影されています。
そして「品格」という言葉に、ノスタルジアがつきまとうとすれば、それは、高度経済成長がもたらした安定・平等社会の終焉に立ち会い、私たちが、その後ろ姿を見送っているからに他なりません。それは、また同時に、安定・平等社会との決別という、苛酷な現実からしばし目をそらすための、最期の「ファンタジー」なのかも知れませんね。
苛酷な現実を覆い隠す言葉としての「品格」
相撲のことでいえば、「横綱の品格」とは、誰もその実体を言い当てたり、示したりできない蜃気楼のようなものです。そもそも大相撲という国技自体の存続が危ぶまれる状況に陥っているのであり、日本人の子弟からは、新弟子もまともに採れないので、東欧やモンゴル等、世界中の貧しい国から、成功に飢えた青年たちを掻き集めなくてはならないのが現実です。そして、そうした青年の中から誕生した、飛び切りの成功者が朝青龍なのです。相撲のグローバル化といえば、聞こえはいいが、学習塾の鞄を背負って、ゲーム機に熱中する小利口で「品のいい」子供ばかりになった日本からは、苛酷な修練に耐えるハングリー精神を持った子供が消え失せてしまった。そして、今や国技たる大相撲を支えているのは、なりふり構わず生き延びることに必死な「品のない」外国人だということを、誰もが承知しています。その現実を覆い隠すために「横綱の品格」なる言葉は生み出されたのです。
転じて、日本の現実に目を向ければ、少子高齢化とグローバル化に伴って押し寄せる外国人、いくら働いても正社員にもなれないワーキングプアの増大、なりふり構わず、必死にならなければ生きていけず、「品格」という言葉とは無縁に生きる人々が、身のまわりに増えています。そうした人々が抱えている苦境と、自分たちが得た「安定・平等社会」とは別物だということを確認したくて、この国の人々は「品格」という言葉にどうしようもなく惹かれるのであり、品格ブームとは、戦後の日本人が築き上げてきた「安定・平等社会」が消え去っていく過程で立ち現れる最期の輝きのようなものでしょう。
ここまで、書いて、29年前に「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は、おれは絶対風雅の道をゆかぬ」と書いた詩人、中桐雅夫の言葉を思い出しました。
老い先が短くなると気も短くなる
このごろはすぐ腹が立つようになってきた
腕時計のバンドもゆるくなってしまった
おれの心がやせた証拠かもしれぬ
酒がやたらにあまくなった
学問にも商売にも品がなくなってきた
昔は資本家が労働者の首をしめたが
今はめいめいが自分の首をしめている
おのれだけが正しいと思っている若者が多い
学生に色目をつかう芸者のような教授が多い
美しいイメジを作っているだけの詩人でも
二流の批評家がせっせとほめてくれる
戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は
おれは絶対風雅の道をゆかぬ
「やせた心」(中桐雅夫)
透徹した詩人の目は、この詩が書かれた29年前に、この国の閉塞した未来を正確に見切っていた。日本人の品格を賛美し、我彼の違いを言い立てることは、この詩人の言葉をかりれば「めいめいが自分の首をしめている」姿に重なります。品格をいいながら、われわれの心は救いようもなく、やせているのではないでしょうか。
「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は、おれは絶対風雅の道をゆかぬ」と書いた詩人の
2008年03月17日
品格とは?
ひんかく 【品格】を 国語辞書(大辞泉)で調べてみると、その人やその物に感じられる気高さや上品さ、品位。と書かれています。
品の良い人、悪い人と言う言葉を聞く事があります。悪い人とは、例えばやくざやちんぴら等を思い浮かべたら解りやすいんじゃないでしょうか。従って、品の良い人(品格が高い)は逆の意味を指します。つまり、その人の立ち居振舞いが、その人の気高さや格調高さを感じさせるのです。
また、品の良い言葉(品格が高い言葉)、悪い言葉と言うのもあります。
ある現象を直接表現すると、イメージを壊わすような時、わざわざ別な言葉を使って、イメージを壊さない様にすると共に、その場の雰囲気を壊さない、場合によっては和らげる事ができます。こんな事ができる人は、品が良い人と言いますが、豊かな表現力が無いとできない事なので誰にでも出来る事ではありません。ですから、品格の高さとは、感性の高さも表す訳です。
国家の品格とは国民の行いの表れです。必ずしも一致する訳でなはありませんが、国家の品格とは、その国民の平均的レベルと考えれば良いのではないでしょうか。
ただし、何が「気高さ」「格調高さ」ということなのかは、時代、時期によって全く異なったものになります。
ある時期では、品格の無いこと、と言われていたものが、ある時期になると品格のあるもの、と言われるなんていうのは良くあることです。
例えば、有名な小説家が「品格が〜」なんておこがましく発言していたりしますが、僅か100年ちょっと前は、小説家なんてものは、ロクでもない職業の代表みたいに言われていたこともありました。たとえば、二葉亭四迷の名前が、小説家を志したことに激怒した父親から言われた「くたばってしまえ」を捩ったもの、なんて言われていますよね。
大昔から、人は自分よりも若い世代の人が何かをすると「最近の若い奴は…」ということが多くありました。
そして、最近は技術の革新などもあって、より世代間のギャップは大きくなっています。そんな背景の中で、そのギャップを苦々しく思っている人々が「品格」ということを流行らせているのではないか、と思います。
また、社会の中で自らの分をわきまえて、それに誠実である事、誠実に生きる事だとも思います。
自らの分とは、自分の才能、才能の限界、立場、なすべきこと、してはならないこと、言ってはならないこと、運命、当然受け取るべきもの、などです。
例えば、長年、一筋にやってきた職人や農民には品格が感じられます。こうした人々は自らの役割をはっきり認識しているため、私たちは、そう感じるようになるのだと思います。
江戸明治の人は品格ある人が多かったというイメージがありますが、それは身分社会の中で自らの分をわきまえ易かったからではないでしょうか。
国家についても、その品格とは、国際社会の中で上記の自らの分をわきまえることだと思います。
品位、品格の「位」「格」は、レベル。「品」はクオリティーが、英語では、該当するみたいです。
クオリティーは別の意味で、上流階級、社会階級上層の人々という意味も辞書には出てきますが、これは、上流階級の人が社交界に出ても、恥ずかしくないたしなみを身に付けることを指すのだと思います。
結局は、品位のある人とは、そういう社交界に出ても、はずかしくない人で、明治時代の鹿鳴館で、ただ燕尾服やドレスを着て、踊っていた、ああいう世界の人とは違うんだと思いたい、下級武士みたいな人のことだと思います。
とかく今の世の中はホリエモンの”名言”「お金で買えないものはない」に代表されるように、拝金主義が幅をきかせています。品格はそれとは対極で、気高く崇高なものなのです。
以上いろいろと書いてきましが、要するに品格が有るか無いか、上品か下品かどうかは、その人の道徳観や規範意識。それと他の人々に対して、真心を以て接しうるか否かであって、決して言葉遣いが丁寧であるとかないとか、服装が上等であるとか綺麗であるとかではないことがおわかりいただけたと思います。
ひんかく◆品格
grace
a◆ (動作・態度・物言いなどの)優美, 優雅, 気品, しとやかさ, 上品
b◆ (人を引きつける)美点, 魅力, 愛嬌(あいきよう)
c◆(上の立場の人が示す)親切, 好意, 思いやり
refinement
1◆精製, 精練
2◆洗練, 上品, 高尚, 優雅
3◆改善(個所), 改良(点)
じょうひん◆上品
¶上品な refined;
1◆精製した, 精練した
2◆洗練された, 上品な, あか抜けした 《★[類語] ⇒delicate》
3◆精巧な, 凝った
elegant
1◆上品な, 優雅な, しとやかな 《★[類語] ⇒delicate》
2◆〈芸術・文学・文体など〉気品の高い, 高雅な.
3◆〈思考・証明など〉手際のよい, 簡潔な, すっきりしている.
4◆《米》 すてきな, すばらしい
polished
1◆磨き[研ぎ]上げた, 光沢のある
2◆上品な, 洗練された, しとやかな
polite
1◆礼儀正しい 《★[類語] polite は相手の気持ちを思いやり, 礼儀をわきまえている気持ちを表わす; 従って, 消極的に「失礼にならないような」の意にもなる, 時に「外交辞令の」の意味もある
2◆上品な, 教養のある; 上流の
3◆〈文章など〉洗練された, 優雅な
graceful
1◆〈人・動作・態度など〉優美な, 優雅な, しとやかな, 上品な
2◆〈言葉・感情など〉潔い, 率直な
decorous〈女性が主に使用する〉
礼儀正しい, 端正な; 気品のある, 上品な
dignity
1◆威厳; 尊厳; 品位, 気品
2◆(態度などの)重々しさ, 荘重
3◆位階, 爵位続きを読む
品の良い人、悪い人と言う言葉を聞く事があります。悪い人とは、例えばやくざやちんぴら等を思い浮かべたら解りやすいんじゃないでしょうか。従って、品の良い人(品格が高い)は逆の意味を指します。つまり、その人の立ち居振舞いが、その人の気高さや格調高さを感じさせるのです。
また、品の良い言葉(品格が高い言葉)、悪い言葉と言うのもあります。
ある現象を直接表現すると、イメージを壊わすような時、わざわざ別な言葉を使って、イメージを壊さない様にすると共に、その場の雰囲気を壊さない、場合によっては和らげる事ができます。こんな事ができる人は、品が良い人と言いますが、豊かな表現力が無いとできない事なので誰にでも出来る事ではありません。ですから、品格の高さとは、感性の高さも表す訳です。
国家の品格とは国民の行いの表れです。必ずしも一致する訳でなはありませんが、国家の品格とは、その国民の平均的レベルと考えれば良いのではないでしょうか。
ただし、何が「気高さ」「格調高さ」ということなのかは、時代、時期によって全く異なったものになります。
ある時期では、品格の無いこと、と言われていたものが、ある時期になると品格のあるもの、と言われるなんていうのは良くあることです。
例えば、有名な小説家が「品格が〜」なんておこがましく発言していたりしますが、僅か100年ちょっと前は、小説家なんてものは、ロクでもない職業の代表みたいに言われていたこともありました。たとえば、二葉亭四迷の名前が、小説家を志したことに激怒した父親から言われた「くたばってしまえ」を捩ったもの、なんて言われていますよね。
大昔から、人は自分よりも若い世代の人が何かをすると「最近の若い奴は…」ということが多くありました。
そして、最近は技術の革新などもあって、より世代間のギャップは大きくなっています。そんな背景の中で、そのギャップを苦々しく思っている人々が「品格」ということを流行らせているのではないか、と思います。
また、社会の中で自らの分をわきまえて、それに誠実である事、誠実に生きる事だとも思います。
自らの分とは、自分の才能、才能の限界、立場、なすべきこと、してはならないこと、言ってはならないこと、運命、当然受け取るべきもの、などです。
例えば、長年、一筋にやってきた職人や農民には品格が感じられます。こうした人々は自らの役割をはっきり認識しているため、私たちは、そう感じるようになるのだと思います。
江戸明治の人は品格ある人が多かったというイメージがありますが、それは身分社会の中で自らの分をわきまえ易かったからではないでしょうか。
国家についても、その品格とは、国際社会の中で上記の自らの分をわきまえることだと思います。
品位、品格の「位」「格」は、レベル。「品」はクオリティーが、英語では、該当するみたいです。
クオリティーは別の意味で、上流階級、社会階級上層の人々という意味も辞書には出てきますが、これは、上流階級の人が社交界に出ても、恥ずかしくないたしなみを身に付けることを指すのだと思います。
結局は、品位のある人とは、そういう社交界に出ても、はずかしくない人で、明治時代の鹿鳴館で、ただ燕尾服やドレスを着て、踊っていた、ああいう世界の人とは違うんだと思いたい、下級武士みたいな人のことだと思います。
とかく今の世の中はホリエモンの”名言”「お金で買えないものはない」に代表されるように、拝金主義が幅をきかせています。品格はそれとは対極で、気高く崇高なものなのです。
以上いろいろと書いてきましが、要するに品格が有るか無いか、上品か下品かどうかは、その人の道徳観や規範意識。それと他の人々に対して、真心を以て接しうるか否かであって、決して言葉遣いが丁寧であるとかないとか、服装が上等であるとか綺麗であるとかではないことがおわかりいただけたと思います。
ひんかく◆品格
grace
a◆ (動作・態度・物言いなどの)優美, 優雅, 気品, しとやかさ, 上品
b◆ (人を引きつける)美点, 魅力, 愛嬌(あいきよう)
c◆(上の立場の人が示す)親切, 好意, 思いやり
refinement
1◆精製, 精練
2◆洗練, 上品, 高尚, 優雅
3◆改善(個所), 改良(点)
じょうひん◆上品
¶上品な refined;
1◆精製した, 精練した
2◆洗練された, 上品な, あか抜けした 《★[類語] ⇒delicate》
3◆精巧な, 凝った
elegant
1◆上品な, 優雅な, しとやかな 《★[類語] ⇒delicate》
2◆〈芸術・文学・文体など〉気品の高い, 高雅な.
3◆〈思考・証明など〉手際のよい, 簡潔な, すっきりしている.
4◆《米》 すてきな, すばらしい
polished
1◆磨き[研ぎ]上げた, 光沢のある
2◆上品な, 洗練された, しとやかな
polite
1◆礼儀正しい 《★[類語] polite は相手の気持ちを思いやり, 礼儀をわきまえている気持ちを表わす; 従って, 消極的に「失礼にならないような」の意にもなる, 時に「外交辞令の」の意味もある
2◆上品な, 教養のある; 上流の
3◆〈文章など〉洗練された, 優雅な
graceful
1◆〈人・動作・態度など〉優美な, 優雅な, しとやかな, 上品な
2◆〈言葉・感情など〉潔い, 率直な
decorous〈女性が主に使用する〉
礼儀正しい, 端正な; 気品のある, 上品な
dignity
1◆威厳; 尊厳; 品位, 気品
2◆(態度などの)重々しさ, 荘重
3◆位階, 爵位続きを読む

